評論 太宰治 「きりぎりす」
松山 尚紀
イントロデュース
読者のみなさんは人の社会的成功を疎ましく思ったりしたことはありますか? 成り上がった人の振る舞いが醜く感じたことはありますか?
現代だと作家よりも、お笑い芸人などに「きりぎりす」に登場する語り手の女性のようなことを思ったりすることはありますが、好きな男性、しかも夫に対してそのようなことを思うというのは不思議だなと思います。
本作品はロマン主義の枠組みに綺麗に範を取っています。社会的地位がない男性が成り上がる物語と、男性のことが好きだった女性が離れていく物語です。本作品は離別の物語でもあるかもしれません。あるいは、語られる側の男性の後ろめたさや破滅の悲運が透けて見えるような気もします。
本作の評論に入る前に、「太宰治っていったいだれなの?」と疑問に思った方のために、太宰治について簡単に説明したいと思います。といっても、太宰治は教科書にも取り上げられるくらい有名な作家で、お笑い芸人で芥川賞作家の又吉直樹が太宰治のファンであることからも、有名になりましたが、一応、説明していきたいと思います。
作者紹介
一九〇九年生まれ。青森県出身。大地主の九番目の子供として育つ。本名は津島修治。東大仏文科中隊。自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながら、第二次世界大戦前から戦後にかけて、次々と作品を発表。代表作に『走れメロス』、『津軽』、『ヴィヨンの妻』、『斜陽』、『人間失格』などがある。坂口安吾や織田作之助などの作家とともに新戯作派や無頼派と称された。一九四三年に山崎富栄と玉川上水で入水自殺し、生涯を閉じる。
以上が太宰治本人の説明ですが、本作「きりぎりす」はどういった作品なのでしょうか?
あらすじ
主人公の女性は画家である男性の妻。画家である男性は、最初は売れない画家だったけど、売れていくにつれて次第に振る舞いが成り上がりの人間に特有な振る舞いになっていき、妻は夫の破滅を願うようになります。昔のように、売れなくても媚びない、気高い画家であって欲しかった、しかしいまでは、鑑賞者に迎合するような作品ばかりを作り、一端の口を聞くようになってしまったのが嫌だから、破滅の道を歩んでほしい、といった具合に。
最終的に二人は離婚します。そして、画家の男性の元妻はラジオで、元夫の声を聞き、嫌になって、ラジオの電源を落として、きりぎりすの鳴き声を聞きながら、それが背骨に残るようにこころに留めておきたいという内容のことを独白します。
あらすじとしては以上です。
本論
なんとも悲しい話ですね。画家は自分や女性のために必死でがんばって、絵を描いて、売れっ子になったにもかかわらず、それが気に食わなかったなんて。逆に、貧しいながらに男性を支えていたのに、あっさり捨てられてしまうのも悲しい事実です。考えようによっては、女性の側が男性を切ったというようにも取れますが、おそらく、男性が女性の清貧思想や純朴さやあどけなさを男性に望む考え方に呆れて、女性を切ったのだと私は考えています。
ロマン主義というのは、この手の作品が多く、貧しい人が成り上がる物語が王道パターンとなっています。もちろん、ロマン主義の要素はそれだけではなく、騎士道精神の復活や、恋愛賛美なども含まれますが、それはキリスト教との葛藤でもあります。
本作の冒頭でも、主人公の女性がキリスト教に関する言及をしますが、そのことからもわかる通り、明らかにキリスト教とロマン主義の物語になっていて、最終的にロマン主義が勝つ話になっています。しかしここで「キリスト教VSロマン主義」としなかったのは、お互いに持ちつ持たれつの関係性でもあり、単純な対立とも言い難いものだという太宰の思想が入ってるからだと私自身は思っています。しかし、ここを広げると、フランス革命やナポレオン時代のフランスの話やキリスト教の話に派生するので、横道に逸れてしまう気がします。なので、気になった方はそれらに関係する本を読んでみるといいかもしれません。
そもそも、日本の近代というのは、「脱亜入欧」という言葉によりスタートしています。明治維新により政府が、欧米の精神や思想を導入しないと、戦争などで負けてしまうという考え方から、「脱亜入欧」の考え方をいち早く、アジアで導入したのが日本でした。結果として、「和魂洋才」というような、日本の精神性で技術のみを欧米風にという考え方の影響もあってか、あまり精神の方は欧米化が進みませんでした。それそのものが、アンバランスな考え方だと私は思うのですが、なかなか精神性をまでも変えるのは難しかったのでしょう。
そんななか、日本の文士たちも、西洋的な近代化を導入しなくてはいけないとなり、作中の時間の流れをスタートからラストまで、まっすぐ進むように整えたり、文語から口語に移行したりとさまざまな作戦に打って出ました。
太宰治も、近代文学の文士の一人として、どうにか西洋的なロマン主義の思想を日本に導入できないかと奮闘した結果、本作は産まれたかもしれません。もちろんそれは、大きな文学史の流れから捉えたときに、そういう見方もできるというだけの話であって、作家自身の個人的な考えや想いなどは反映されているのではないかとは思うのですが。
しかし、結局、近代の日本は先ほども述べた「和魂洋才」の考え方が捨てきれず、精神までも、西洋風にできなかった。それが日本の近代化の失敗だったのでしょう。
日本にフィットする形でロマン主義やキリスト教などの考え方を、日本に導入することまではできませんでしたが、作品の上では太宰治は本作「きりぎりす」で一定程度の成功を収めたといってもいいと思います。
しっかり、それらの思想の性格も捉えていますし、太宰治の強烈な男女観も色濃く反映されているので、本作は名作でしょう。
しかし、あまりに格式張っているというか、明確に構図的に書き過ぎてしまったのは、太宰治の本作の失敗点でもあります。具体的にどう失敗かと言いますと、構図的すぎると、構造は綺麗に浮かび上がるのですが、作品に内在されている、本質的なものや超本質的なものの複雑さや作家本人の視点の強さのようなものが薄まってしまう点です。
ギリシア悲劇と太宰治の作品を比較するのも、変な話ですが、ソポクレス『オイディプス王』や『コロノスのオイディプス』や『アンティゴネー』は構図的であり、人物が類型的でありながらも、複雑さや悲劇の詳細が克明に描かれているのです。
本作品は離婚の話なので、悲劇的な内容と言えますし、ロマン主義に範を取っているので喜劇的な内容でもあるのですが、存在の悲劇性や喜劇性が文学としては弱いというのも本作の弱点です。
存在の悲劇性や喜劇性の深みは、存在論的生命の輝きでもあるからです。
もちろん、太宰治は作家として、商業的に成功を収めなくてはいけなかったですし、読者サービスとしての作家業をまっとうしなくてはいけなかったのは事実です。
なので、あまり太宰治に「中上健次や三島由紀夫に比べて、文学性がまだ足りない」などと言ってしまうのは酷なことですが、中上健次も三島由紀夫もエンタメも純文学も両方、書ける作家だったので、太宰治にもそれをやって欲しかったという思いはあります。
しかし、太宰治の作品はいつでも、精神的に落ち込んでいる人や、気の弱い人の救いとなるものでもあったので、それはそれとして、立派に役目を果たしているのではないかと思うのです。
そんな太宰治の小説「きりぎりす」ぜひ読んでみてください。
参考文献
※参考文献
・太宰治 『きりぎりす』 初出 一九四〇年 新潮社
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