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執筆者の写真松山尚紀

評論 石原慎太郎 『殺人教室』所収「ファンキージャンプ」

   評論 石原慎太郎 『殺人教室』所収「ファンキージャンプ


松山 尚紀  


イントロデュース

 みなさんは家族の縛りや幻想の恋に、こころのなかで終止符を打った経験はありませんか? 家族も恋人もいつかはその愛情が終わるものです。そんな悲しい宿命を抱えた一人のジャズピアニストの話が今回、評論する「ファンキージャンプ」です。古典に範を取りつつ、革新的でもある本小説の評論をする前に、石原慎太郎がどんな人物かを紹介したいと思います。

作者紹介

 石原慎太郎は一九三二年生まれの小説家であり、政治家です。兵庫県神戸市で生誕したのちに、北海道の小樽市、神奈川県の逗子市で育ちます。大学は一橋大学の法学部を卒業。評論家、江藤淳とは大学の同級生。一九五五年に『太陽の季節』で文學界新人賞、芥川賞受賞。一九七〇年に『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞。芥川賞、三島由紀夫賞の選考委員も務めます。「ファンキージャンプ」は三島由紀夫も高く評価。政治家としては、東京都知事に四回就任。鷹派として有名で、対中国論陣を張ったことは有名です。

 石原慎太郎については、書いてもキリがないくらいいろいろな話があるので、このくらいで打ちやめにします。それでは、「ファンキージャンプ」がどのような作品なのか、あらすじを書いていきたいと思います。

あらすじ

 短編小説「ファンキージャンプ」は、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーやアート・ブレイキーなどの有名ジャズメンと共演し、名を馳せた日本のジャズピアニスト松木ことマキーが主人公。演奏の前に松木は遅刻して現れるが、手に傷を負っている。松木はディジー・ガレスピーと共にステージに立ち、演奏を繰り広げていくなかで、さまざまな幻想とも現実ともつかない回想をします。

 回想では、どうやら、母親を拳銃で撃ち殺したかったのに、間違って父親を撃ってしまったということや、母親を撃って殺したことや、悦子という交際相手女性を自殺に追いやった摩耶という女性を殺害したという内容のことが私的な文章で書かれています。

 摩耶は松木にバーで、彼の演奏を「バド・パウエル風だ」という内容のことを言い、その影響から抜け出しなさいということを示唆します。摩耶が与えてくれた薬物により、松木の演奏や精神的な成熟は成されていきますが、先ほども述べた通り、最終的には摩耶という女性を殺害します。

 以上が本作のあらすじとなります。

本論

 ファンキージャンプの魅力は途中、回想の形式で導入される詩的な文体にこそあると思います。そのエピソードの一つ一つが瑞々しく、鮮烈です。細かいエピソードに触れているとキリがないので、骨組みとなっている部分だけに触れますが、小説の途中に「俺はシャンギーじゃない 俺はバップだ」というフレーズが出てきます。これはなにを意味しているのでしょう?

 つまり、彼は実際に殺害しているかどうかは不明ですが、意識のなかで、父親と母親を殺害することによって、対象が精神的に死んだということを確認するイニシエーションを演奏を通してやっているのです。つまり、これは一種の心理劇でもあり、古代ギリシアの悲劇に範を取りつつ、当時代的で、かつジャズのアドリブ演奏の手法を小説に全面に導入した、伝統と革新の両方がないまぜになっている画期的な作品なのです。精神は保守、技術は革新といったところでしょうか。ドライブ感あふれるタッチと、横溢する情感で、最後まで押し切る文章の強さは石原慎太郎ならではだと感じます。

 摩耶は小説内の現実世界でも殺害されているようなのですが、家族や幻想の恋人である摩耶の呪縛から脱却することで、バップとなったというこの解釈が私は好きです。

 バップになったということは、つまりチャーリー・パーカーになったということです。チャーリー・パーカーは、フリオ・コルタサルというアルゼンチンの作家が「追い求める男」という小説でモデルにしたことでも有名ですが、彼もモデルの男性が家庭において、宗教や貧困などいろいろな問題を抱えているときに辛かったので、時間を飛び越えたいという思いから、未来という時間を渇望していたという内容の記述があります。

 つまり、石原慎太郎の見解もコルタサル同様、バップ=チャーリー・パーカーは「未来」のジャズをやって人物だということで一致しているのでしょう。精神的な成熟を遂げるために必要だった摩耶という人物を殺害して、現在という時間を飛び越えて、未来へと飛び立った一人のジャズマンの悲劇がここに描かれているのです。

 ちなみに、松木が影響下にあったバド・パウエルは統合失調症を患っていました。そのこともどうやら関連があるようです。

 昔、とあるサイトで、「妄想と幻想が違う」という内容のエッセイを読んだことがありました。どう違うかと言うと、著者曰く、妄想とは単なる空虚な絵空事を頭のなかで描いているだけで、空回りし、なんの進展もないものだと言うのに対し、幻想というのは、特定の対象に関心を強く寄せて、それから脱却することで精神的な成熟が見込めるものなのだそうです。

 つまり、本作を一人のジャズマンのわけのわからない妄想を描いた小説というのは、見当違いも甚だしいことで、妄想ではなく、幻想の終止符を打った瞬間の一人のジャズマンの内面世界を、ポエジーを交えて鮮やかに活写した作品だという方が正しいのです。

 人はなぜある人生の一時期、人に幻想を抱くのでしょう?

 それは永遠の謎ですが、人は幻想というものを知るからこそ、真にやさしく強く在ることができるものなのではないでしょうか?

 私見では、大半の有名作家が、この幻想を乗り越えたあと、つまり文学が終わったあとの文学というものに到達できていないように思います。

 中上健次も私の見解では、文学が終わったあとに文学に到達したと思っていましたが、終止符を打つ瞬間が非常に美しく、そのあとの展開はあまりなかったようにも思えます。

 石原慎太郎は幻想に終止符を打ったあとも、過去にこんな幻想があったというような内容の作品や、人間の生き様をテーマにした作品や、右翼的政治小説などを華々しい作品を書きました。

 私も最近、石原慎太郎作品を読みはじめたばかりなので、たくさんは読んでいないのですが、それでも優れた作品が多いように思います。

 文学の終わりを描いた石原慎太郎の「ファンキージャンプ」ぜひ読んでみてください。

参考文献

参考文献 石原慎太郎 『殺人教室』初版 昭和三十七年 角川文庫

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