評論 村上春樹『女のいない男たち』所収「木野」--善行を働くことの価値
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松山 尚紀
イントロデュース
数年前に読んだ、村上春樹の短編集『女のいない男たち』所収の「木野」について、早朝に散歩をしながら、考えていた。
考えていたことを書く前に、村上春樹本人について書いておこうと思う。
作者紹介
一九四九年京都生まれ、兵庫出身。早稲田大学卒業後、東京の国立でジャズ喫茶「ピーターキャット」を経営する。一九七九年、初めて書いた中編小説『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞。一九八二年、『羊をめぐる冒険』で野間新人文学賞を受賞。その後も数々の賞を受賞し、二〇〇六年にはフランツ・カフカ賞も受賞。
代表作に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『海辺のカフカ』、『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』、『騎士団長殺し』がある。
海外移住や旅行経験も豊富で、英語が堪能。翻訳者としても有名で、多くのアメリカ文学の小説を日本語に翻訳している。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を敢えて、英語名の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と翻訳し、タイトルをつけたことは、文学の世界では有名。
初めて書いた小説、『風の歌を聴け』は一度、新しい文体や雰囲気を発見するために、英語で書いた文章を日本語に訳して、賞に投稿した。
あらすじ
タイトル「木野」は主人公の男性の名前だ。
大学時代、木野は体育大学で陸上選手として、活躍していて、その後、スポーツメーカーに勤務するが、妻との離婚がきっかけで、南青山の土地を譲り受け、ジャズ喫茶を経営することになる。当初はジャズ喫茶の周りには、猫が住み着いていたのだけど、妻との離婚協議が成立してから、猫の代わりに蛇が姿を現すようになる。
ジャズ喫茶の経営はそれなりに順調に運んでいくのだけど、ある日、不穏な出来事に木野は巻き込まれてしまう。謎の男二人組が現れたのだ。この男たちは、店で暴言を吐くが、いつもバーの隅で本を読んでいるカミタというスキンヘッドの男性の力によって、店に出入りしなくなる。
その件はひと段落ついたのだけど、木野は長髪メガネの男性から暴力を受けているという、謎の女と関係を待つ。
その後に、木野は親戚の勧めで、逃避行に出る。ビジネスホテルに宿泊して、ずっとオフィスビルの様子を眺めているが、会社勤めの人々はなぜあんなにもなんでもないことで笑顔になることができるのか不思議である、ということを木野は考えもする。
そして、最終的にはビジネスホテルの一室で、幻聴とも思われる、ドアをノックする音に悩まされて、木野は深く傷つき物語は終了する。
本論
この小説を読むポイントは、傷ついたことと向き合うことの重要さにもあるだろうし、神話的な象徴を用いた物語として読むことも重要だ。
しかし、それ以上に重要なのは、カミタが残したこのフレーズだと思う。
「木野さんは自分から進んで間違ったことができるような人ではありません。それはよくわかっています。しかしただしからざることをしないでいるだけでは足りないことも、この世にはあるのです。そういう空白を抜け道に利用するものもいます。言っている意味はわかりますか?」
つまり、木野が進んで善行を働かなかったのが仇となって、問題に巻き込まれたのだという、彼自身の精神に巣食っている消極性という罪悪を生む本質的原因をカミタは告げているのだ。
ダンテやプラトンがよく善行を積もうとか、善のイデアが重要だと言っているのは、このことに一因があるのではないかと思う。
ここが西洋と東洋の倫理観の違いである。
要するに、西洋の文化人は、人の上に立つべき勇敢な人間としての誇りと責任のために、罪の意識を緩和するために、神から罰を受けないために、自らが幸福であるために、善行を積もうと言っているのだ。
東洋はそうではない。
表面的にその場のお茶を濁すための気遣いや、根拠不明かつ曖昧な人徳というお題目や、悲しい人と共に悲しむための悲しみとして倫理観が成立しているのである。
これは「因果論のみがあり、物事の生成に本質は関係ない」という「色即是空空即是色」の仏教の教えにも関係があるだろう。
西洋の倫理観は合理的かつ、観念的かつ、勇敢な善なのだ。
まとめれば、木野は西洋的な意味での倫理観を有していないがゆえに、トラブルに巻き込まれていると言えるだろう。
木野は東洋人でありながら、西洋的な倫理観をも持っていないと苦悩する運命にある二重苦の人間であり、繰り返しにはなるが、罪と罰の相関関係の本質は絶えず罪を犯さないことのみでなく、善行を働かないことにもあるのだという気づきやそれに伴う実践が重要だということに気づかない。
村上春樹はその日本人の精神の奥底に潜む病理を指摘しているのだ。
私は小説「木野」から、善の本質を汲み取ったので、余裕があるかぎり、善行を働くことにしようと思う。
了
参考文献
参考文献 村上春樹『女のいない男たち』 文春文庫 二〇一六年
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