top of page
執筆者の写真松山尚紀

評論 アントニオ・タブッキ 『遠い水平線』

   評論 アントニオ・タブッキ 『遠い水平線


松山 尚紀  


イントロデュース

 読者のみなさんは運命論を信じますか? それとも、すべての出来事は無意味であり偶然だという考え方を信じますか? 唯物的に物を見ることや、肉体の力とは、確かなようでいて、実際どれほど確かなものなのかと考えることはありますか? 本書は運命論を巡るミステリーであり、勇気の書でもあると思います。

 本作の評論に入る前に、「アントニオ・タブッキっていったいだれなの?」と疑問に思った方のために、タブッキ氏自身について、説明したいと思います。

作者紹介

 一九四三年、イタリアのピサに生まれます。小説家をやりながらポルトガル文学の研究をし、詩人フェルナンド・ペソアの研究者としても知られています。シエナ大学で教鞭をとっていたそうです。代表作に『レクイエム』、『供述によると、ペレイラは』、『遠い水平線』、『いつも手遅れ』があります。『供述によると。ペレイラは』では、カンピエッロ賞とアリステイオン賞を、本作ではフランスのメディシス賞外国小説部門を受賞しています。その他、オーストリア国家賞も受賞しています。

 翻訳者の須賀敦子自身は、タブッキ氏に会ったことがあるそうですが、「神経質で緊張する」という内容のことを述べていました。自身の作品が映画になったときに、映画撮影の様子を見ていたのですが、突如、昔の知り合いに似た人間が通り、その人のあとを追いかけて行ったというエピソードも『ユリイカ』に掲載されていました。

 そんなちょっと不思議に満ちた人、タブッキ氏ですが、彼の作品のなかでも比較的読みやすい作品が『インド夜想曲』だと思います。『いつも手遅れ』や『時は老いを急ぐ』などもハイレベルな作品なのですが、評論するのがなかなか難しいと思い、本作を取り上げることにしました。

あらすじ

 あらすじを書くのは難しいのですが、大まかに書くと次のようになります。

 死体置き場の管理人をやっているスピーノという男性は、ある日、身元不明の他殺死体が運ばれてきたときに、どんな人物だったのかを知りたくなります。そして、恋人のサラが長期休暇に出ているあいだ、いろいろな場所を巡り、いろいろな人に会います。

 たらい回しにされた挙句、約束の時間に港にはだれもいなかったのですが、その途上で、偶然とは物事の見えないつながりを人が気付けないことだと気がつくのです。銃撃にあった警官も運命論によって、運命づけられて死んだのだと、そう確信するに至るのです。

本論

 本作品は断片的にオムニバス形式で話が綴られていて、つながりのあるような、ないようなそんな話の集積から成り立っています。

 「サウダージ」、「死後生きる生」、「都市化により隠蔽された死」、「階級闘争」、「代表可能性」、「運命論」、「観念論」、「喜劇的な存在論」などさまざまなテーマが、本作には散りばめられていて、それらがまとまりをもって表現されることはないですが、まるで漫然と海辺を散歩しているような気分にさせられるのが、本書の素晴らしい部分だと思います。

 おそらく、本作品は光と影や倫理とロマンなどの二項対立から成立していて、付かず離れず、遠い水平線を追いかけるように、その二つのあいだで揺れる葛藤を描いたものであり、もっと言えば、作品全体が、主人公の愛する女性サラへの手紙のようなものにも思えます。

 この作品はミステリーやハードボイルドを装った、哲学小説であり、恋愛小説であると私は考えています。

 「遠い水平線」とは、サラのような女性の暗喩であり、本作品に明確には書かれていないですが、誘惑を得意とする古典的な類型で表現される女性なのでしょう。つまり、ずっと追いかけていたのは、サラであり、スピーノを監視しているのもカモメではなく、サラなのです。言っていることが複雑かもしれませんが、本質的にはそういうことだと思います。作中にも示されている通り、合理的に秩序だって説明できない事柄は世の中に多くあるからです。

 タブッキ氏の思う喜劇的恋愛論は、絶えず、倫理を思考しながら、エゴを生きることであり、まるで、存在の喜劇性とは、「自分の身に降りかかる残酷な悲劇を、女性を、愛しながら、笑うことにこそあるんだ」、というものなのかもしれないと私は本作品を読んで思いました。

 悲劇や罪と罰について熟考し続け、それを絶え抜き、それらを、女性を愛することが真の喜劇なんだというのが、タブッキ氏が本作を通して伝えたかったメッセージなのではないでしょうか?

 一見、文体も軽やかで、散漫な作品ですが、実は重い内容であり、強い一貫性が背景にあり、その内実に触れることができるかどうかが、タブッキ氏の作品を好きになれるかどうかのカギであると私は考えています。

 この作品に限ったことではないですが、タブッキ氏は、作品を通じて常に科学的な唯物主義や、浅はかな欲望や倫理に対する考え方にアンチを唱えてきた作家だと私は考えています。

 表現についても少しだけ触れましょう。本作には美しすぎるくらい、美しい情景描写の文章があるので、引用したいと思います。



 日によって、この町の密やかな美しさが、ふと、表面にあらわれることがある。たとえば、晴れ上がった風の日、あたたかい南西風が吹くまえの潮風が、はりつめた帆のように、小さな破裂音をたてながら、道路を吹き抜けていく。そんな日、家々も教会の塔も、コントラストの強い写真のように輪郭がはっきりしすぎて、あまりにも現実的に露出してしまう。光と影が、交わりを知らぬまま、強引にせめぎあい、細い道路や広場に、黯い影の部分と、眩しい光の部分にわかれて、白黒のチェス盤を描き上げる。

 以前は、こんな日は、他にすることがなければ、旧ドックのあたりを散歩することにしていた。桟橋に沿ったトロッコのレールを超えて、都心まで歩いて帰りながら、彼は、その頃を思い出していた。都心に出るには、環状線のトンネルを抜けるバスに乗ってもよかったのだが、彼は、曲がりくねった埠頭に沿って、ドックを抜けるのが好きだった。いかつい鉄ばかりの風景のなかで、あてもなく歩くのが好きだった。舟べりに古タイヤをくくりつけた艀から水にとびこんだ、子供の頃を思い出したからだ。傷あとのようにうずく、貧しかった夏の記憶。



 文章そのものが単なる情景描写でなく、必然で決まっている暗喩のような対象とのコミットメントのなかに介在する有機性が表立って出ている文章で、哲学的とすら言える、情景描写です。私はこの文章が大好きで、一度でいいから、こんな素敵な文章が書けたらいいなと思うのですが、なかなか難しいものです。

 「白黒のチェス盤を描き上げる」という表現が文章中にありますが、チェスに関しては、他のシーンでも触れられていて「チェスそのものも単なる論理ゲームではなく、運命論的な有機性を帯びたゲームなんだ」とこの場面からすでにそう言いたげな様子が漂ってきています。

 アントニオ・タブッキの『遠い水平線』は、後半、サラが登場しなくなってほんとうに遠い水平線のように遠い存在になってしまったかのように描かれているところが、本作の魅力でもあると思います。

 スピーノという名前は、本人もあとがきで否定していないので、やはりスピノザを意識しているのでしょう。他の意味もあるとは言っていますが。

 アントニオ・タブッキ氏の『遠い水平線』、大名作ですので、ぜひ読んでみてください。



参考文献

 ※参考文献

 アントニオ・タブッキ 『遠い水平線』 初版 一九九六年 白水社uブックス

Comments


bottom of page